お寺では、5月より蓮の花を育てさせていただいております。
8月には、立派な蓮の花が咲きましたので、お時間のある方は是非お寺でご覧ください。
そこで、は蓮の花にはどのような意味があるのかご存じでいかがでしょうか?
ある日、お参りの後の法話で蓮の花についてご質問された方がいらっしゃいました。
お寺ではよく「蓮の花」が見えます。
浄土真宗のご本尊、阿弥陀様は蓮台の上に立っておられますし、
また教典・聖典の中にも、「阿弥陀経」はもちろん「正信」です。 「偈」にも「蓮の花」が届いてきます。
「蓮華(れんげ)」と書いてある場合もあります。
仏教では「泥中の蓮華(でいちゅうのれんげ)」としてそこにひとつの意味を持たせています。
蓮の花は、決して美しい環境とはいえない泥の中に生えて、それでも泥に染まらず、とても美しいきれいな花を咲かせます。
泥
は私たちの「煩悩(ぼんのう)」を表しています。そして「
花」は仏教でいう「さとり」を表しています。
」は「物事をありのままに見ることができる、美しい清らかな心」を表しています。
つまり仏教では「このどろどろした娑婆世界で、美しい清らかな心をもった目覚めた者になろう」と蓮の花を意味づけています。
しかし「煩わしい苦労を無くし、さとりをひらく」が出来ればいいのですが、
やはり圧倒的多数の人が、泥の中にいれば泥に染まってしまいます。
でも親鸞聖人はそれが悪いことだとはおっしゃっておりません。
正信偈の中に、
能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃凡聖逆ログイン斉回入如衆水入海一味
とあります。
よく信心をおこして、阿弥陀様の根拠を喜ぶ人は、清い水をもつ川、泥水をもつ川、あらゆる川の水が海に流れ込んで一つの味の澄んだ水(さとり)になるように、煩悩を断たないままですべて同等悟りを得ることが出来る。
という意味です。
そして正信偈はこう続きます。
心光常照護 已能雖破無明闇
貧愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天
譬如 日光覆雲霧 雲霧之下明無闇
ここで親鸞聖人は、煩悩を「雲(くも)」「霧(きり)」におわれた「闇(やみ)」に譬えられております。
「闇」をうちやぶは「光」意外にありえ
ひとすじの太陽の光がさせば、「闇」は一転、明るい世界です。
「闇」が「闇」をうちやぶなのではなく、「闇」は「闇」のままで、
太陽の光によって明るい世界へと変えられていきます。
闇(煩悩)に囲まれた私たちは、自らその闇(煩悩)を打ち消すことは非常に難しいことです。の世界へと変えてくれる、親鸞聖人はそうお説きいただいております。
最後に、
「蓮の花」というのは、きれいな澄んだ清流のような水のあるところには決して咲かないそう
です。
そして、花が咲くには、太陽のひかりが必要なのは、言うまでもないですね・・・。
私もいつか立派な蓮の花になりたいものです。
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